竹中半兵卫

日本战国英雄 艺术


「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)と言えば、主君や将軍の戦略・戦術の指揮を補佐する役割を担った戦国時代を代表する「名軍師」。最終的に「豊臣秀吉」に仕えた竹中半兵衛は、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と共に、豊臣秀吉が天下人になるまで支えて活躍します。竹中半兵衛の生涯、そして軍師とは何かを見ていきましょう。

天下人に認められた竹中半兵衛の才能

実は美男子!文武両道!

竹中半兵衛

竹中半兵衛

竹中半兵衛は、1544年(天文13年)、美濃国(現在の岐阜県南部)の国主「斎藤道三」(さいとうどうさん)の家臣であり、「大御堂城」(現在の岐阜県揖斐郡)の城主である「竹中重元」(たけなかしげもと/しげちか)の子として誕生。

「半兵衛」は通名で、本来の名を「竹中重治」(たけなかしげはる)と言いました。

竹中半兵衛は、「その容貌、婦人の如し」と資料に残るほど、線が細い美男子で大人しい性格に思われていましたが、武術に優れ、剣術は皆伝の腕前。

また、漢王朝を興した高祖「劉邦」(りゅうほう)の軍師「張良」(ちょうりょう)や、三国時代の蜀国の軍師「諸葛孔明」(しょかつこうめい)ゆかりの兵法書を読破するなど、学問にも長けていました。

1558年(永禄元年)には、父・竹中重元と共に美濃にある岩手氏の居城「岩手山城」を攻略し、その場所に「菩提山城」を築いて竹中氏の新たな居城にします。これは、山頂に造られた広大かつ堅固な城でした。

しかし、岩手山城攻略からわずか数年後の1560年(永禄3年)、竹中半兵衛が17歳のときに父・竹中重元が亡くなります(※一説には、1562年[永禄5年]の竹中半兵衛19歳のとき)。

これにより、竹中半兵衛は家督を継いで菩提山城城主となり、斎藤道三の孫の「斎藤龍興」(さいとうたつおき)に仕えるようになるのです。

竹中半兵衛の戦法で織田軍を撃退

織田信長

織田信長

竹中半兵衛が斎藤龍興に仕え始めたとき、斎藤龍興もまた父「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)を亡くし、14歳で家督を継いだばかりでした。美濃国は、斎藤義龍の時代から隣の尾張国(現在の愛知県西部)の「織田信長」に領地を狙われていたのです。

若い斎藤龍興が城主ならば落城はたやすいと、すぐに織田信長の侵攻を受けることになります。そこで竹中半兵衛は、織田信長を追い払う戦法を考案しました。

それは、「十面埋伏陣」(じゅうめんまいふくのじん)という独特の戦法。これは、敵が通ると予想される場所に、あらかじめ伏兵を仕込ませて置き、敵兵が通り過ぎるのを待って、背を向けたところを全方位から攻めるという手法です。実戦で用いられることの少ない戦法でしたが、中国の三国時代において「曹操」(そうそう)が「袁紹」(えんしょう)軍に対して仕掛け、勝利したと言います。

幼いときから兵法を勉強していた竹中半兵衛がこうした戦法に倣ったかどうかは分かっていませんが、伏兵を仕込んだ場所を敵が通らない可能性もあったため、リスクの高い戦法でした。

しかし、これが功を奏して、斎藤龍興軍が勝利。美濃斎藤氏は、竹中半兵衛の奇策によって危機を免れますが、斎藤龍興はこの勝利に驕り、酒色におぼれ暴政を行なうようになったのです。

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斎藤龍興から稲葉山城を奪う

岐阜城(稲葉山城)

岐阜城(稲葉山城)

隣国・織田信長の脅威が消えない中、斎藤龍興は政(まつりごと)を放棄し、美濃国の士気は落ちる一方でした。

ここで竹中半兵衛は驚きの手段に出ます。斎藤龍興の居城である「稲葉山城」(現在の岐阜県岐阜市)から斎藤龍興を追い出し、城を乗っ取るという方法です。

竹中半兵衛は、人質として稲葉山城にいた弟の「竹中久作」(たけなかきゅうさく)を見舞いに来たと口実を設け、わずか16人、あるいは17人とも言われる家臣らと共に稲葉山城に入りました。

そして、わずかな手勢であっと言う間に稲葉山城を奪取。待機していた義父「安藤守就」(あんどうもりなり)の2,000人を擁する軍に合図し、安藤軍が攻めてきたことで斎藤龍興は、どうにもできなくなってしまいます。わずか1日のできごとで、斎藤龍興は稲葉山城を追われてしまいました。

なお、稲葉山城とはのちの「岐阜城」のこと。岐阜城は後年、織田信長が美濃を平定した際、新たな拠点と定め、天下統一に向けた足掛かりになった重要な場所でした。そんな稲葉山城を、あろうことか斎藤龍興は少人数に占拠されてしまったのです。

これを聞いた織田信長は竹中半兵衛に一目置き、美濃国の半分を条件に稲葉山城を譲渡するよう交渉しますが、竹中半兵衛は拒否。半年立て籠もったあとで、斎藤龍興に城を返し、しばらく隠棲しました。

竹中半兵衛がこのように稲葉山城から斎藤龍興を追い出す行動に出たのは、堕落した斎藤龍興を諫めるためだったと言います。しかし諸説あり、竹中半兵衛が斎藤龍興の側近や斎藤龍興本人に侮辱されたため、あるいは義父・安藤守就の謀反に加勢したためとも言われ、真義は定かではありません。

豊臣秀吉の軍師へ

豊臣秀吉

豊臣秀吉

斎藤龍興の戻った稲葉山城ですが、1567年(永禄10年)、結局織田信長に攻め落とされ、斎藤龍興は美濃国を追われて美濃国主の座を失ってしまいました。

織田信長は、先の稲葉山城の一件もあって、竹中半兵衛をぜひ家来にしたいと思うようになります。

そこで、家臣の「豊臣秀吉」に勧誘を命令。豊臣秀吉は、学問に長けていた竹中半兵衛に、三国志に出てくる「三顧の礼」(さんこのれい:目上の者が格下の者のもとへ3度出向いてお願いをすること)と称して、3度出向きます。

竹中半兵衛はこれに感激。織田信長に直接仕えることは断りますが、豊臣秀吉の天性の才能を見抜き、豊臣秀吉の与力になることを了承するのです。

しかし、この三顧の礼については、竹中半兵衛の優秀さを際立たせるための創作ではないかと言われており、竹中半兵衛は豊臣秀吉ではなく織田信長に仕えたという説もあります。

ここでは、竹中半兵衛が豊臣秀吉の与力になったとみなして、その後の竹中半兵衛が見せた活躍をご紹介しましょう。

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竹中半兵衛が戦で見せた知略

1567年(永禄10年)頃(※一説によると1570年[元亀元年])、豊臣秀吉の与力になった竹中半兵衛は、軍師としてその力を次々と発揮します。

翌1568年(永禄11年)には、織田信長の上洛時に通る道を確保するため従軍を要請したものの拒絶した六角氏への攻撃「観音寺城の戦い」と、六角氏との交戦で主戦場となった「箕作城攻め」に参加しました。この箕作城攻めの功績によって、竹中半兵衛の主君・豊臣秀吉は昇格し、1万石を得ています。

その後も様々な戦を経験することになる竹中半兵衛ですが、実戦ではどのような知略を見せたのでしょうか。豊臣秀吉配下の竹中半兵衛が参戦した戦のうち、有名な戦いから竹中半兵衛の軍師としての活躍を見ていきます。

姉川の戦い

浅井長政

浅井長政

竹中半兵衛が豊臣秀吉に仕えた頃、「浅井長政」(あざいながまさ)の裏切りにより、豊臣秀吉の主君・織田信長勢は、浅井氏、朝倉氏と敵対していました。

1570年(永禄13年)、「姉川の戦い」が起こりますが、竹中半兵衛は少しでも敵方の戦力を削ごうと得意の誘降(ゆうこう:説得により降伏をうながすこと)で敵を寝返らせる戦法を展開します。

姉川の戦いで軍師として豊臣秀吉に登用された竹中半兵衛は、浅井氏の数千もの兵が「横山城」(現在の滋賀県長浜市)から出て行ったのを、そちらに引き付けることで織田軍の戦力を削ぐための策に違いないと見抜き、追わず守りを固めることが大切だと説得。

織田軍は戦力を削ぐことなく、横山城をそのまま包囲し、浅井軍と朝倉軍の合流により、姉川の戦いの火蓋が切られました。さらに、この戦いで竹中半兵衛は陣替えを進言して、浅井軍の本陣突破も防いでいます。

また、姉川の戦いのあと、竹中半兵衛は豊臣秀吉と共に横山城に残って城を死守し、織田信長包囲網を絶えしのぎました。竹中半兵衛が織田信長に仕えていたという説では、このときの城での攻防を機に豊臣秀吉の家臣として働くようになったと言われています。

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小谷城の戦い

姉川の戦い以降も、織田氏と朝倉・浅井連合軍との衝突は続きました。そうした両者の争いが決着したのは、1573年(天正元年)の「小谷城の戦い」です。

小谷城」(現在の滋賀県長浜市)は浅井氏の居城で、織田信長は豊臣秀吉に命じて、浅井長政の居所と浅井長政の父「浅井久政」(あざいひさまさ)の居所の間にある京極丸を落とし、2人が連絡を取れないようにしました。

その後、浅井久政の居所を攻め、浅井久政は自害。織田信長は浅井長政に対し、降伏するように促します。しかし、浅井長政は最期まで拒否するのでした。浅井家には、織田信長の妹「お市の方」が嫁いでおり、竹中半兵衛は、お市の方とその娘達の救出方法を豊臣秀吉に進言したと言われています。

長篠の戦い

長篠の戦い」は、織田氏と「武田勝頼」(たけだかつより)が衝突した戦で、織田軍が武田氏の騎馬隊攻略のために、鉄砲を使った画期的な作戦を展開したとして知られる合戦です。竹中半兵衛はこの長篠の戦いでも活躍しました。

武田軍が一部の兵を横に動かしたのを見て、竹中半兵衛の主君である豊臣秀吉はじめ、織田軍は横からの攻撃に備え武田軍に追従して移動しようとします。

豊臣秀吉も指示し、自軍を動かそうとしましたが、竹中半兵衛は豊臣秀吉の命令を聞き入れず、その場を離れませんでした。竹中半兵衛は、はじめから織田軍を混乱に陥れるための武田軍の作戦だと見抜いていたのです。このときの竹中半兵衛の判断によって、豊臣秀吉は救われました。

中国攻め

織田信長が豊臣秀吉に指揮を執らせた「中国攻め」に竹中半兵衛は追従するも、豊臣秀吉は苦戦。

しかし、大敵とも思われた備前「八幡山城」(現在の岡山県赤磐市)の城主・宇喜多氏の家臣であった明石氏を竹中半兵衛は説得して味方に付け、遂には宇喜多氏をも抱き込み、無血開城を成功させたと言われています。

これに喜んだ織田信長は、豊臣秀吉に黄金100枚と竹中半兵衛に銀子100両の褒美を与えました。「戦わずして勝つ」ための知略を、竹中半兵衛はこの中国攻めでも見せたのです。

誰よりも軍師に憧れ、実現した人物

黒田官兵衛

黒田官兵衛

「戦国乱世を終わらせるために、戦う」。竹中半兵衛は、織田信長や豊臣秀吉に言われたその言葉を信じ、軍師として忠実に、真っ直ぐに生きた男でした。

しかし、1579年(天正7年)の中国攻略中に肺炎に倒れ、6月13日、36歳の若さでこの世を去ります。竹中半兵衛は、「武士ならば戦場で死にたい」と最期まで軍師としての仕事をまっとうするのです。

また、竹中半兵衛を語る上で、朋友・黒田官兵衛を最期まで信じた話も外せません。

これは、1578年(天正6年)の中国攻めでのこと。黒田官兵衛は、毛利側に寝返った「荒木村重」(あらきむらしげ)を説得するため、単身で「有岡城」(兵庫県伊丹市)へと向かいますが、幽閉されてしまいます。

織田信長は、連絡が取れなくなった黒田官兵衛を裏切り者と見なし、豊臣秀吉に黒田官兵衛の息子である「松寿丸」(まつじゅまる)を殺せと命令。しかし竹中半兵衛は、織田信長に背き松寿丸を匿うのです。この時代、主君である織田信長に背くことは、自分だけでなく、家族や家臣まで皆殺しになる可能性があることを意味していました。

竹中半兵衛死後の1579年(天正7年)10月、有岡城は開城。黒田官兵衛が救出され、裏切っていなかったことが分かります。織田信長も豊臣秀吉も松寿丸を殺したことを悔やみますが、竹中半兵衛のおかげで生きていたことを知り、胸をなでおろすのです。

命を賭けて、同志・黒田官兵衛を信じぬく強さ。主君の過ちをも救う聡明さ。竹中半兵衛は、憧れだった軍師・張良、諸葛孔明にも劣らない、まさに「軍師の中の軍師」でした。

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共に豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛との違いとは

豊臣秀吉に仕えた竹中半兵衛と盟友の黒田官兵衛は、共に優れた軍師として知られ、「二兵衛」と言われました。

黒田官兵衛の息子・松寿丸の逸話からも分かるように、竹中半兵衛は黒田官兵衛を信頼していましたが、この2人が豊臣秀吉のもと、共に力を合わせたのは中国攻めからのわずか2年ほどだったと言います。黒田官兵衛が豊臣秀吉に仕え始めたのは1577年(天正5年)のことで、竹中半兵衛は1579年(天正7年)に亡くなっているためです。

竹中半兵衛、黒田官兵衛の2人に共通していたのが、古代中国の兵法書「孫子」で理想とされた「戦わずして勝つ」でした。できるだけ少ない犠牲で勝利を収めようとしたのです。しかし、両者には違いもありました。

まず竹中半兵衛は、敵側も含め、いかに人的な犠牲を払わずに済むかを重視しました。敵将の家臣をうまく味方に引き入れて敵将を説得させる、あるいは敵の一部を寝返らせて戦況を有利に導いたのも、そうした竹中半兵衛の戦略のひとつです。

また兵糧攻めの際は、敵地の領民に土地を提供するなど、決して無下に扱うことはありませんでした。竹中半兵衛は、できるだけ敵を作らずに勝利することを重視したのです。

一方、黒田官兵衛が重視したのは迅速さでした。中国攻めの中で竹中半兵衛と同じように兵糧攻めの戦法を取っていますが、周辺の田畑を焼き払うことで、城に逃げた領民もろとも敵軍を餓死に追い込んでいます。黒田官兵衛は、戦局が悪化する前に、とにかく少しでも早く敵を屈服させることを優先したのです。

竹中半兵衛の家紋

丸に九枚笹紋

丸に九枚笹紋

竹中半兵衛の家紋は、丸の中に九枚笹が描かれた、「丸に九枚笹」です。

竹と笹はほぼ同義とされ、古代から神事に使われてきたことで、神聖な植物とされてきました。松竹梅という言葉もあるように、高い生命力とまっすぐに生える様から、縁起の良い家紋です。

竹中半兵衛自身の生涯は決して長くはありませんでしたが、この家紋のように知略をもって、主君・豊臣秀吉に数々の縁起(戦での勝利)を運んできました。

一般的に竹中半兵衛の家紋は丸に九枚笹ですが、これは江戸に入ってからの美濃竹中氏の家紋とも言われ、竹中半兵衛の時代は丸のない九枚笹だったとも言われています。

竹中半兵衛の名言

優れた軍師と評された竹中半兵衛には多くの逸話があり、その中で名言と称される言葉がいくつもあります。

竹中半兵衛の言葉はどれも、常に戦場に向かう武士そのものであり、軍師そのものでした。竹中半兵衛の名言の中でも、その生き方を良く表した例をいくつかご紹介します。

要害がいかように堅固であっても、人の心がひとつでなければ、要害堅城も物の用をなさない

これは、竹中半兵衛が、仕えていた斎藤龍興の居城・稲葉山城を奪取し、織田信長より城の譲渡を打診されたときの言葉であるとのこと。

実際、稲葉山城は難攻不落の城と名高い城でしたが、竹中半兵衛は1日でその城を奪ってしまいました。いかに堅固な城でも、皆(家臣)の心がひとつでなければ、難攻不落の城も意味を成さないという意味です。

分に過ぎたる価をもって馬を買うべからず

戦国時代は、馬の上から戦うのではなく、馬から下りて戦うことがほとんどでした。

竹中半兵衛は、戦に自分にふさわしくない高価な馬を持っていくと、馬が気になって手柄を立てることはできない、わざわざ高価な馬を買い付けて戦に臨むのは武士としてどうなのかと説いたのです。

その言葉通り、竹中半兵衛が戦に向かう際は貧相な馬を連れていたと言います。

人皆合戦のことを問うに、その問うべき要領を問はず

「皆は合戦の話を聞くときに、本当に要領をついたことは問わない。聞く方も答える方もどうでも良いことばかりを話すために、勝利できないのだ」と言いました。

この時代、合戦の話をすると、誰がどんな手柄を立てたという個人の話が話題になることが多かったのです。

しかし、いくら手柄の話をしたところで、戦に勝つための経験談を聞くという意味では、聞いた本人には何の利益もありません。それよりも、合戦談を真剣に聞くのであれば、全体的な視野で戦の流れ、部隊の変化を問うべきだと述べました。

竹中半兵衛の愛刀 虎御前の太刀

「虎御前の太刀」(とらごぜんのたち)は、小谷城の戦いの際、小谷城にほど近い「虎御前山」で手柄を立てた竹中半兵衛が、豊臣秀吉から拝領した名刀です。

美男子で、争いを好まなかったとされる竹中半兵衛に似合っている、すらりとした細身の刀身は、切れ味も秀でていたと考えられています。竹中半兵衛は、本太刀を生涯大切にしましたが、実戦で使ったことはほとんどなかったとのことです。

本太刀の制作者は、「太閤記」には「元重」(もとしげ)と記されていますが、実際には美濃国関(現在の岐阜県関市)の刀工「関兼常」(せきかねつね)であるとの説が有力。関兼常は、美濃国を代表する刀工として知られ、その作品の出来栄えは高く評価されています。

竹中半兵衛亡きあと虎御前の太刀は、同じく豊臣秀吉に仕えた「山内一豊」(やまうちかずとよ)に譲られました。現在は、京都府の「井伊美術館」に所蔵されています。

虎御前の太刀

虎御前の太刀

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
(茎切付銘)
竹中重治所持
室町時代 豊臣秀吉→
竹中半兵衛→
山内一豊→
個人所蔵

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