戦国乱世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた「徳川家康」。天下人として名高い家康ですが、幼い頃は「織田家」と「今川家」の人質として扱われ、家臣共々不遇な生活を送っていました。しかし、そののちは三河平定、そして天下分け目の「関ヶ原の戦い」を経て征夷大将軍となったのです。その生涯と共に、「徳川紋」と言われる徳川家の家紋、そして徳川家康が残した名言をご紹介します。
今川家の人質時代~不遇の少年期を過ごした徳川家康~
今川家の人質のはずが家臣の裏切りで織田勢に売られる
1542年(天文11年)、三河国(現在の愛知県東部)「岡崎城」で、松平氏8代当主「松平広忠」(まつだいらひろただ)の嫡男が生まれました。
「竹千代」(たけちよ)と名付けられた男児こそが、のちの徳川家康です。
竹千代が生まれた頃の三河国は、東に「今川義元」(いまがわよしもと)、西に「織田信秀」(おだのぶひで:[織田信長]の父)と強敵に囲まれており、いつ攻め込まれてもおかしくない緊迫した状況にありました。
1547年(天文16年)、竹千代にとって最初の試練が待ち受けます。織田信秀が岡崎城に向けて侵攻したことを受け、松平広忠が今川義元に援軍を要請したときのこと。今川義元は、その見返りに竹千代を人質として要求したのです。
松平広忠は人質の要求を承諾し、竹千代を今川義元のいる駿府(すんぷ:現在の静岡県静岡市)に向けて送ったのですが、警護に付けていた家臣がまさかの裏切り行為に走ります。竹千代を千貫文(一説には百貫)で織田軍に売り飛ばしたのです。松平広忠が若いこともあり、主君を見限って織田になびく家臣は珍しくありませんでした。
今川家での人質生活と桶狭間の戦い
約2年を織田のもとで過ごした竹千代は、8歳になった時に人質交換をされて今川氏の下へ移されます。なお、この時点で父の松平広忠はすでに亡くなっており、家臣が城代として城を守っていました。次期城主である竹千代は、今川氏の人質として駿府で過ごしているため、実質的に岡崎城は今川氏に支配されたのです。
1555年(弘治元年)、人質のまま元服を迎えた竹千代は、今川義元から「元」の名前を賜り「次郎三郎元信」(じろうさぶろうもとのぶ)に改名。その2年後、元信から「元康」(もとやす)へと名前を変えた16歳の時、今川義元の勧めで「築山殿」(つきやまどの:今川義元の姪で当時は[瀬名姫:せなひめ])と結婚しました。
徳川家康を人質に取って、将来的に今川家の武将として活躍させることを目論んでいた今川氏ですが、「桶狭間の戦い」でその企みは打ち砕かれることになります。上洛を目指して進軍していた今川軍は、織田信長によってわずか数千の兵に急襲されたのです。
桶狭間の戦いでは、徳川家康も今川軍として参戦していましたが、今川義元が敗れたことを知ると今川氏からの独立を図りました。
織田信長の家臣団として活躍
三河国統一。名を松平から徳川に改める
1562年(永禄5年)、今川の支配から逃れた徳川家康は、まず織田信長と面会します。織田家に敵対する意思がない旨を告げ、織田信長と軍事同盟「清洲同盟」を結びました。また、徳川家康は今川氏から独立できたことを機に、翌年1563年(永禄6年)に名前を「家康」(いえやす)に改名します。
1564年(永禄7年)、「三河一向一揆」を鎮圧させて、その勢いのままに東三河・西三河を平定。無事に三河国を統一した徳川家康は、1566年(永禄9年)に朝廷から「従五位下三河守」(じゅごいのげみかわのかみ)に叙任されて、松平姓から「徳川」姓へと改めました。
徳川家康、血気にはやり武田軍に敗走。三方ヶ原の戦い
徳川家康にとっての最大の負け戦と言えば、甲斐国(現在の山梨県)「武田信玄」と激突した「三方ヶ原の戦い」です。
1572年(元亀3年)、甲斐を出発した武田信玄が北近江の浅井氏、越前の朝倉氏、そして大坂の石山本願寺・反織田勢力と結託して信濃から遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)に侵攻。徳川家康を牽制する目的で二俣城(ふたまたじょう)を陥落させます。二俣城が落ちたことで、徳川家康が本城としていた浜松城は、掛川など東部拠点との連絡線を絶たれて窮地に陥りました。
徳川家康は、次に武田軍に攻め込まれるとすれば浜松城だろうと予測を立てて、浜松城に籠城します。このとき、織田信長からの援軍と徳川家康軍合わせて約11,000人。これに対して武田軍は約30,000人の軍勢を率いており、多勢に勝利するには籠城戦が最適だったのです。
しかし、ここで武田軍が思わぬ動きを見せました。浜松城へ向かっていたはずの武田軍が突如進路を変えて、三河国(現在の愛知県)方面へと進撃を開始したのです。戦国時代において、進行上の城へ攻め込まないというのは異例の事態でした。武田信玄による目に見えた挑発行為でしたが、徳川家康はこの挑発に乗ってしまいます。
徳川家康は、奇襲のつもりで武田軍を背後から狙ったものの、知略に長けた武田信玄にはすべてお見通しでした。武田軍は、徳川家康軍に向かって石を投げつけるというさらなる挑発行為を行ない、徳川家康軍の家臣らは、徳川家康の命令が下る前に武田軍へと攻撃を開始してしまう始末。
最初こそ徳川家康軍が優勢を取っていましたが、戦力差による不利が次第に見え始め、ついに徳川家康は敗走。辛くも浜松城へ逃げ帰ったというのがこの戦いの顛末です。この敗走で、徳川家康を守るために有力な家臣が多く戦死しています。
豊臣政権の下で
神君伊賀越え
「本能寺の変」で織田信長が「明智光秀」(あけちみつひで)に討たれる前日、徳川家康は堺で商人と茶会を開いていました。茶会の翌日、上洛しようとしていたところで織田信長の訃報を聞き付けます。
このとき、徳川家康が伴っていた従者は30名余り。その中には、「徳川四天王」として名高い「本多忠勝」や「井伊直政」など、有力な家臣も多くいました。しかし、僅かな手勢であったため大軍に襲われればひとたまりもありません。徳川家康は、家臣からの説得に応じると三河国へ帰国することを決意します。
これは、「神君伊賀越え」と呼ばれる徳川家康にとっての災難のひとつ。この時点で危惧しなければならないのは、明智光秀の手の者だけではなく、織田信長の去就定まらない家来、在地の土豪や百姓達の襲撃。特に、自分達の村を侵入者から守るために武装した農民による落ち武者狩りは脅威でした。事実、明智光秀は織田信長を討ったあとに落ち武者狩りに遭い、その際の傷が致命傷となって命を落としています。
武装する農民達を退け、道中では織田家の家臣「長谷川秀一」や「西尾吉次」などに助けられながら険しい道を乗り越えた徳川家康一行は、無事に三河国へ到着。そして徳川家康は、出世頭であった豊臣秀吉が、天下取りに向けて織田信長の家臣と戦を繰り広げる様子を一旦見守ることになります。
小牧・長久手の戦い
本能寺の変以降、徳川家康は領主不在の甲斐・信濃・上野を攻略するために北条氏と同盟・縁戚関係を結び、遠江・三河と併せて5ヵ国の大大名に上り詰めました。
そして1584年(天正12年)、徳川家康は、織田信長の死後に豊臣秀吉と対立するようになった織田信長の2男「織田信雄」(おだのぶかつ)の救援のために豊臣秀吉軍と対峙することになります。
「小牧・長久手の戦い」と呼ばれるこの合戦は、約16,000人の徳川家康・織田信雄軍に対して、豊臣秀吉軍は約100,000人と兵力に大きな開きがありましたが、小牧山での奮戦により豊臣秀吉軍を撃退。続く長久手の戦いで徳川家康軍が豊臣秀吉軍を襲撃し、豊臣秀吉軍の「池田恒興」(いけだつねおき)、「池田元助」(いけだもとすけ)、「森長可」(もりながよし)を討ち取ります。連戦連勝の豊臣秀吉軍にとっては手痛い敗北でした。
その後、約8ヵ月に及んだ小牧・長久手の戦いは、豊臣秀吉から講和を持ちかけられた織田信雄が受諾する形で終結。織田信雄の援軍という名目で参戦していた徳川家康は、戦う理由を失ったために三河へと帰国しました。
1586年(天正14年)になると、豊臣秀吉は徳川家康を服属させようと接近します。臣従することを拒否していた徳川家康に対して、豊臣秀吉は実妹「朝日姫」を後妻として差し出し、義兄弟になりました。
その後、徳川家康は大坂城で豊臣秀吉に謁見。譜大名の前で忠誠を誓い、1590年(天正18年)の小田原征伐には豊臣秀吉軍として参戦し、大きな戦功を挙げます。
そして、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を没収される代わりに、関東管領として関東の8ヵ国を治めることになりました。徳川家康は故郷の三河を失うことになりますが、この移封に関して豊臣秀吉に逆らうこともできず承諾します。
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機は熟した!天下分け目の戦いへ
天下取りの下準備
関東8ヵ国を拝領した徳川家康は、関東の領地経営や軍制改革に専念し、有力な家臣を各地に配置するなどして難なく統治を実現しました。
豊臣秀吉の狙いは、大きくなった徳川家康の力を削ぐためでしたが、豊臣秀吉の思惑とは裏腹に次第に関東での支配力を拡大。徳川家康は、武田軍の旧家臣や北条氏の家臣を迎え入れ、申し分ない軍事力を蓄えていったのです。
天下分け目の関ヶ原の戦い
関東で着実に力を付けていった徳川家康は、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が没すると、いよいよ天下取りの最後の仕上げに踏み切ります。
徳川家康は、豊臣秀吉の遺言により「五大老」の筆頭に着任。豊臣秀吉の遺言である「諸大名同士の結婚の禁止」を破って「福島正則」らと婚姻関係を結ぶ他、禄高(ろくだか:武士の給料)の増減に関与するなど、豊臣秀吉政権に反発する動きを見せます。
そんな徳川家康の暴走を見かねて立ち上がったのが、「五奉行」の筆頭に就いていた豊臣秀吉の重臣「石田三成」。
徳川家康は、天下を取るにあたり、石田三成が障害になると見越しており、石田三成を失脚させるために、「加藤清正」や福島正則を味方に付けました。
1600年(慶長5年)、五大老のひとり「上杉景勝」に謀反の疑いがあるとして、徳川家康は討伐軍を結成。「会津征伐」と言われるこの挙兵は、のちに起きる「関ヶ原の戦い」のきっかけと言われています。
上杉景勝を討伐するために会津へと向かう途中で、徳川家康の耳に石田三成らの挙兵の報せが入りました。徳川家康は、会津への進軍をただちに取りやめると、石田三成討伐へと動き出します。豊臣政権や石田三成らに反感を抱いていた諸大名を招集して東軍を結成。石田三成は、豊臣政権を守るために徳川家康率いる東軍と衝突します。
天下分け目の戦いは、美濃国(現在の岐阜県)「関ヶ原」で繰り広げられました。開戦当初は西軍側が優勢でしたが、次第に西軍側から東軍側へ寝返る兵が増えていきます。本戦開始から約6時間後、混乱を極めた戦場で西軍側の諸将が次々と敗走。
そして、松尾山で傍観していた西軍の「小早川秀秋」が東軍へ寝返り、西軍「大谷吉継」隊へ攻め込みました。これが決定打となり、徳川家康率いる東軍は勝利を収めます。合戦から数日後、逃亡していた石田三成は捕縛され、京都の六条河原で処刑されました。
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征夷大将軍として江戸幕府開府へ
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)、朝廷から征夷大将軍に任命され、ここに江戸幕府が誕生します。
豊臣秀吉が関白の座まで上り詰め、朝廷と関係を維持したときとは対照的な選択でした。徳川家康は、征夷大将軍となり幕府を江戸に置くことで、朝廷からの干渉を避けようと意図したのです。
ただ、徳川家康自身が江戸にいるのは稀で、豊臣方を牽制するために頻繁に上洛し、多くの時間を伏見城で過ごしています。
将軍となってからも、徳川家康は豊臣方の反乱が起こらないように目を光らせなければなりませんでした。西国にはまだ豊臣方に就こうとする大名もいるため、彼らの力を削ぐ必要があったのです。
そこで徳川家康は、江戸城の普請に取り掛かります。大名達に戦の時間を与えない目的で、東西70名余りの大名を指名し、城の普請にかかわらせました。この一環で城下町も整備され、大名屋敷も造られます。
豊臣家滅亡と、天下人の最期
1605年(慶長10年)、徳川家康は将軍職を3男の「徳川秀忠」へと譲り、2年後には駿府城へと移り住んで、陰ながらも政治の主導権を握り続けました。
一方で徳川家康には、豊臣家に対する憂いがまだ残っており、これを完全に払拭できたのは1614~1615年(慶長19~慶長20年)に起きた「大坂冬の陣・夏の陣」のときです。大坂冬の陣・夏の陣は、冬と夏の2度行なわれ、激闘の末に豊臣家は滅亡。これをもって、徳川家康の天下掌握が完了しました。
豊臣家という最大の憂いが消えたあとも、徳川家康は若い頃から変わらない無駄を極力省いた生活を送ったと言います。平均寿命が40歳前後という時代において、徳川家康は75歳までその生涯を全うしました。
徳川家康が長生きできた理由は、麦飯と味噌汁のみの質素な食事や、鷹狩りによる運動不足の解消など、健康に気を遣った生活を生涯続けていたからではと言われています。
天下にとどろく三つ葉葵紋。徳川家の家紋とは
権威の象徴 徳川紋
「加茂神社」の神紋「双葉葵[二葉葵]」(ふたばあおい)は、徳川家の家紋「徳川紋」の原型と言われる紋です。
双葉葵の葉は本来2つしかありませんが、徳川家の葵紋はその常識に捉われず、葉が3つあります。この3つの葉を使った葵紋のことを徳川紋と呼んでいますが、徳川家がいつから葵紋を使うようになったかは定かではありません。
葵紋を使用し始めた理由については諸説あり、一説では「家臣の本多家と交換した」、別の説では「家臣の酒井氏から譲り受けた」、また他の説では「徳川家康自身が葵紋を考案した」などがあります。
徳川家康が征夷大将軍に就いたため、「三つ葉葵紋」は将軍家の権威を象徴する家紋となりました。そして、三つ葉葵紋に権威を持たせるために、天皇家から菊紋と桐紋を下賜する話が持ち上がったときも丁重に断っています。
また、葵紋が特別な家紋であることを強調する一環として、徳川・松平姓以外の者がむやみに葵紋を使うことを禁じました。徳川一門である「水戸徳川家」や「紀伊徳川家」などの御三家も、将軍家の徳川紋と同じ家紋を使ってはならず、裏葉で三つ葉葵を作るように定めます。
徳川家康は、家紋に希少性を持たせることで他の家紋と差別化し、より権威性を高めようとしたのです。
徳川家康が残した名言
野心家でありながらも家臣からの信頼が厚く、天下を取るほどの才に溢れた徳川家康は、多くの名言を残しました。人びとの心を打つ天下人・徳川家康の名言をご紹介します。
「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」
この言葉は、徳川家康が残した「家康公御遺訓」(いえやすこうごゆいくん)という文献の最初に書かれている一節であり、徳川家康の名言として特に人気のある言葉です。
「人生とは、重たい荷物を背負って遠くへ歩いて行くことと同じ。急いで行くことはない」
幼少期に親と離れ離れになり、人質として2度もその身を囚われた徳川家康は、「鳴くまで待とう」という句で例えられるほどに忍耐強い武将でした。重い荷物を背負っている状態で急いでしまうと、転んでしまう可能性がある上に、人より早く疲れてしまいます。
先に天下人となった織田信長や豊臣秀吉のそばで、じっと機会を窺っていた徳川家康が関ヶ原の戦いに臨んだ当時の年齢は58歳。焦らずゆっくりと、着実に成果を出す徳川家康らしい言葉と言えます。
「勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る」
「連戦連勝ばかりしていて、負ける経験をしていない者は、いずれ負け戦を経験することになる」という意味の名言です。
数々の戦を経験してきた徳川家康にとっての、最大の敗北と言えば三方ヶ原の戦いですが、その後の「長篠の戦い」では織田・徳川連合軍が勝利しています。長篠の戦いで武田軍の指揮を執っていたのは、武田信玄の息子「武田勝頼」(たけだかつより)。