真田昌幸

日本战国英雄 艺术

 

戦国時代に活躍した真田家の武将では「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])が有名です。NHK大河ドラマ「真田丸」で取り上げられ、多くの現代人がその生きざまを知ることとなりました。ここでは、その真田幸村(真田信繁)の父親で、同じく大河ドラマにも登場した「真田昌幸」(さなだまさゆき)についてピックアップ。真田幸村(真田信繁)という有名な戦国武将を育てた真田昌幸が、どのようにして真田家を導いていったのか必見です。

真田昌幸の青春時代

幼少の頃、人質として甲斐へ

真田昌幸

真田昌幸

真田昌幸は、1547年(天文16年)に、「真田幸隆」(さなだゆきたか)の3男として生まれました。幼名は「源五郎」(げんごろう)。

真田昌幸には2人の兄、長男「真田信綱」(さなだのぶつな)と次男「真田昌輝」(さなだまさてる)がいました。

なお真田昌幸は、「真田の里」と呼ばれる現在の長野県上田市にあたる地域で生まれたと言われていますが、これには諸説あり、生誕地の確定はしていません。

真田昌幸が生まれた当時、真田家は甲斐国(現在の山梨県)武田家の軍門に下り仕えている状態でした。

そのため、真田家が武田家を裏切らないための保険として、3男の真田昌幸を「武田晴信」(たけだはるのぶ:のちの武田信玄)が人質として預かることになったのです。

戦国時代は、妻や子どもを人質として主君や同盟相手の家に送ることは一般的でした。

例えば、今川家が松平家から嫡男「松平元康」(まつだいらもとやす:のちの徳川家康)を人質に取り、駿府(現在の静岡県静岡市)に置いたことは歴史的に有名です。

武田信玄が設立した奥近習衆に選出される

武田信玄

武田信玄

人質となった真田昌幸は、甲斐国甲府で学問や軍略などの英才教育を受け、武田信玄の「奥近習衆」(おくきんじゅうしゅう:主君の側近くに仕える家臣)に加わることになります。

そして、甲府で受けた英才教育を武器に、真田昌幸は15歳で初陣を果たすことになるのです。

その戦いは第4次「川中島の戦い」で、任務は近習として武田信玄を警護することでした。与えられた任務を無事遂行し、真田昌幸自身の初陣は成功します。

しかし、この戦いでは「山本勘助」(やまもとかんすけ)や、武田信玄にとって右腕的存在だった次男の「武田信繁」(たけだのぶしげ)を失うなど、武田軍にとっては手痛い結果となりました。

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武田信玄のはからいで武藤家の養子となる

その後真田昌幸は、武田信玄の母方・大井氏の支族にあたる武藤家の養子に迎えられます。そこで「武藤喜兵衛」(むとうきへえ)と名乗り、足軽大将の任に就くことに。

なお、武藤家を継いだこの時点の真田昌幸は、地位的には武田家の譜代宿老(ふだいしゅくろう:代々その家に仕えている重臣)クラスに匹敵、もしくはそれに準ずるとされています。

才能を発揮して戦で活躍し、さらに武田信玄の信を得る

ここで真田昌幸が活躍したエピソードをひとつご紹介。

1569年(永禄12年)、武田家と北条家が争った「三増峠の戦い」(みませとうげのたたかい)が勃発します。真田昌幸はこの戦いで、武田家の重臣「馬場信春」(ばばのぶはる)の使番(つかいばん)を務めていました。

任務は、戦場において正確な情報を伝えることですが、真田昌幸はその任務を正確にこなすだけでなく、戦場での一番槍も挙げ、武田信玄の信頼を勝ち取ったのです。三増峠の戦いは、武田家の勝利で幕を閉じます。

武田信玄の死以降、真田家を継承することになった真田昌幸

武田信玄の西上作戦に参加

1572年(元亀3年)、武田信玄はいよいよ天下取りに向けて甲斐国を出発、東海道から京を目指しました。別称「西上作戦」(せいじょうさくせん)と呼ばれる、武田が徳川領や織田領を通過して進む遠征を指します。

この時期に動いた理由として有力なのが、当時は織田家が浅井・朝倉連合軍と対峙しており、そちらに目が向いていたことです。

西上作戦実行の際には、宿敵関係にある「上杉謙信」(うえすぎけんしん)が、武田信玄が留守の間に信濃国(現在の長野県)へ侵攻する可能性を考慮し、後顧の憂い(こうこのうれい)を断つために本願寺家に協力を要請。越中国(現在の富山県)に一向一揆を起こさせました。

準備をしっかり行なった西上作戦は順調に進みますが、それでも戦は避けられません。ルート上に徳川家があるためです。こうして起こった戦が有名な「三方ヶ原の戦い」です。

真田昌幸は、この三方ヶ原の戦いに参加し、徳川勢を打ち破る活躍を見せました。敗北した徳川家康は、「浜松城」(静岡県浜松市)に籠り「空城の計」(くうじょうのけい)で対抗。徳川家康を追撃した「山県昌景」(やまがたまさかげ)は、大手門(おおてもん)が開け放たれた浜松城の異様な雰囲気を警戒し、引き上げることになりました。

徳川勢を打ち破った武田家は、そのまま西進を続行します。

武田信玄亡きあと、跡を継いだ武田勝頼に仕える

武田信玄は、1573年(元亀4年)に三河国(現在の愛知県東部)に侵攻を開始しましたが、その最中に病没。なお、死ぬ前に武田信玄は跡継ぎを「武田勝頼」(たけだかつより)に指名し、この世を去ったとされています。

武田信玄の死によって西上作戦は頓挫し、武田勝頼は甲斐国へ引き上げる決意をしました。武田信玄の遺言にあった「ワシの死を3年隠せ」とは、武田勝頼が甲斐国に戻り国力を高め、再起できるまでの時間を稼ぎたい、という武田信玄の親心だと推察できます。

真田家は、そのまま新しい当主である武田勝頼に仕えることとなりました。

長篠の戦いの影響で真田昌幸が真田家を継ぐことに

武田信玄の死から数年後、真田家当主の真田幸隆がこの世を去ります。嫡男の真田信綱が真田家を継ぎました。

しかし、1575年(天正3年)に勃発した「長篠の戦い」で武田家は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、跡を継いだばかりの真田信綱、さらには次男の真田昌輝も討ち死にしてしまいます。この戦で真田昌幸は、武田勝頼の旗本衆(大将直属の家臣)として戦っていたため、討ち死には免れました。

当主と次の後継者を一度に亡くした真田家は空白状態となり、真田昌幸は強烈な危機感を覚えます。しかし、真田昌幸自身は武藤家の者になっているため手の出しようがありません。懊悩する真田昌幸でしたが、武田家重臣「高坂昌信」(こうさかまさのぶ)のはからいにより、真田昌幸が真田家を継ぐことを主君の武田勝頼が了承。真田昌幸は、無事お家の危機を防ぐことに成功するのです。

なお、真田昌幸が真田家を引き継いだことで、武藤家の所領に関しては武藤一族が引き継いだとされています。

沼田攻略と武田勝頼の死

沼田城跡

沼田城跡

長篠の戦いのあと、真田昌幸は武田勝頼に命じられ沼田領(現在の群馬県沼田市)へ侵攻。持ち前の知略を存分に発揮して切り崩し工作を行ない、支城を手に入れました。

そうして万全の準備を整えてから「沼田城」を攻略しようとしましたが、「北条氏邦」(ほうじょううじくに)が沼田城の援軍に駆けつけたため、一時撤退を余儀なくされることになります。

しかし、真田昌幸はあきらめません。1580年(天正8年)に再度侵攻、沼田城の攻略に成功します。その活躍が認められ、武田勝頼から「安房守」(あわのかみ)の名乗りを許されることに。こうして真田昌幸は、事実上武田家重臣となり、その地位を確立させました。

ところが、1582年(天正10年)に織田・徳川連合軍が本格的に武田領への侵攻を開始。武田勝頼は奮戦しましたが、家臣の裏切りに遭い、自害してしまうことになります。

真田家が生き残るために立てた真田昌幸の方策とは

生き残ることを最優先に、織田家への従属を決断

滝川一益

滝川一益

1582年(天正10年)4月、真田昌幸は様々な状況を考慮して織田家に従属することを決断。

織田信長」に謁見しこれを認められ、真田昌幸は「滝川一益」(たきがわかずます)のもとで与力武将として働くことになりました。

当時の織田家の勢力は、日本一と言っても過言ではありません。また、真田昌幸の所領から近いところでは、「柴田勝家」(しばたかついえ)が「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を圧迫する形で、今にも越後国(現在の新潟県)に攻め入ろうとしていました。

そのような状況で織田信長に反抗するよりも、従属した方がデメリットは少ないと真田昌幸は判断したのです。

織田信長が本能寺の変で討ち死にすると状況は一変

1582年(天正10年)6月2日、織田信長は「明智光秀」(あけちみつひで)の謀反に遭い、この世を去ります。有名な「本能寺の変」ですが、これが真田昌幸の運命を変えるきっかけとなりました。

本能寺の変ののち、旧武田領を巡って起きた一連の戦を総称して「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)と言います。

真田昌幸が織田家に従属した当時、織田家家臣は旧武田領を治めていましたが、有力家臣滝川一益が北条軍に敗北してしまいました。その影響でドミノ式に織田家家臣達が旧武田領を捨て、尾張国(現在の愛知県西部)、美濃国(現在の岐阜県南部)、伊勢国(現在の三重県北中部)などに逃亡。織田信長が死んだことで、旧武田領に主が不在となる状況が生まれたのです。

この隙に領土を広げようと、徳川、上杉、北条がそれぞれ領地獲得に動き出しました。真田昌幸はその頃、大名ではなく佐久郡(現在の長野県東部)の長という地位でしたが、武田信玄から学んだ知略を活かして大名への道を目指します。

織田信長亡きあとはまず上杉に従属し、状況が変わると今度は北条に従属。さらには徳川に従属と転身を繰り返しました。もちろんこれらは表向きの従属。真田昌幸が真田家の生き残りをかけて打った大博打です。

領土をめぐって徳川家康と対立し上田城の合戦に発展

徳川家康

徳川家康

徳川に従属していた真田昌幸でしたが、領土問題の影響で合戦に発展してしまうことになります。1585年(天正13年)に起きた「第1次上田城合戦」です。

なお、この頃には真田昌幸の嫡男「真田信之」(さなだのぶゆき)と次男「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])が父親の補佐を努めていました。

徳川家康と対立した真田昌幸は、四面楚歌を防ぐために再び知略を巡らせます。編み出した策は、一度裏切ったため敵対関係にある上杉との再同盟でした。

当然ながら、ただ同盟を結びに行ってもうまくいくはずはありません。そこで人質として真田幸村(真田信繁)を越後に送ることにするのです。上杉側にもメリットがあったことが幸いし、最終的にこの再同盟は結実します。

背後を気にする必要がなくなった真田昌幸は「上田城」(長野県上田市)に様々な仕込みを行なった上で、徳川軍と対決することにしました。この戦いは武田信玄仕込みの知略を活かした、世に知れ渡る真田昌幸の戦いとして評価されています。

真田昌幸が知勇兼備の猛将として真価を発揮した部分を抜粋してご紹介。まず、合戦時の兵力は真田軍約2,000人に対し徳川軍約8,000人と4倍の差がありました(※諸説あり)。

この劣勢を跳ね返すには、野戦で奇襲などを仕掛け敵の混乱を誘い、敵総大将を一気に討ち取るのが戦国時代における基本の兵法です。しかし真田昌幸は、野戦ではなく「籠城戦」を決意します。この選択が敵の油断を招くのですが、それこそが真田昌幸の狙いでした。

徳川軍は怒涛の攻めであっという間に上田城の二の丸まで占領します。それを確認した真田昌幸は、部下に命じて合図を送りました。すると真田軍の伏兵が現れ、徳川軍を側面から攻撃したのです。

不意の襲撃に徳川軍は混乱、一時的に二の丸から撤退しようと試みますが、城内に潜伏していたさらなる伏兵が退却する徳川軍に襲い掛かります。さらに神川(かんがわ:現在の長野県上田市を流れる信濃川水系の一級河川)を渡って徳川本陣に帰還しようとしていた兵に対し、真田軍は堰を破壊、鉄砲水の発生により徳川軍の多くが溺死してしまいます。

一連の真田軍の反撃により徳川軍の犠牲者は約1,300人、その一方、真田軍はわずか40人ほどの犠牲で済みました。結果的に真田軍の勝利で第1次上田城合戦はその幕を閉じたのです。

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豊臣秀吉に接近し賭けに出る

豊臣秀吉

豊臣秀吉

徳川軍を返り討ちにしたものの、状況が好転したとは言えませんでした。今度は徳川家康本人が10,000を超える大軍を率いて、真田軍を滅ぼそうと計画していたからです。

そこで真田昌幸は、大きな賭けに出ることにしました。

それは「豊臣秀吉」への従属です。ただ、これまでの表向きの従属とは違い、本物の従属となります。

その当時の状況を考えると、万が一にも豊臣家を裏切れば、圧倒的な兵力で蹂躙(じゅうりん:暴力や権力で侵害すること)されてしまうことが容易に想像できたからです。逆に言えば、真田が豊臣の庇護下にあれば徳川家康に攻められる可能性は低くなるとの算段もありました。

真田昌幸は、上杉景勝のもとで人質となっていた真田幸村(真田信繁)を通じ、豊臣秀吉との謁見を願い出ます。真田幸村(真田信繁)の尽力により豊臣秀吉との謁見は実現。真田昌幸が上洛して話し合った結果、真田家は徳川家康の与力大名(家臣ではないが部下にあたる大名)となることに決まったのです。

その決定は徳川家康にも伝えられ、徳川家康は真田攻めを取りやめることになりました。真田昌幸にとって、徳川家康の与力大名となるのは不本意だったとも推察されますが、結果的には、お家存続の賭け」に勝ったことになります。

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豊臣秀吉の死後、再び世は乱れ関ヶ原の戦いが勃発

豊臣政権下で真田家は安定期を迎えていました。豊臣秀吉の庇護下に入り、沼田の領土問題は豊臣秀吉の裁定で無事決着したかに思われましたが、北条が武力をもって「惣無事令」(そうぶじれい:豊臣秀吉が大名間の私闘を禁じた法令)に違反します。これにより「小田原征伐」が執り行なわれ、北条家は滅亡してしまいました。

その後、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去。以降の豊臣政権運営を巡って、「石田三成」(いしだみつなり)と徳川家康の対立が激しくなります。その対立が招いたのが、1600年(慶長5年)に勃発した天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」です。この関ヶ原の戦いは、真田家にとって運命の分かれ道となります。

関ヶ原の戦いで打ち出した真田昌幸の「大勝負」とは

真田幸村

真田幸村

関ヶ原の戦いで、真田昌幸は一世一代の大勝負を打ち、そして勝ちました。その過程を紐解いていきます。

関ヶ原の戦いは真田昌幸にとって、東軍・西軍のどちらを選択するべきか簡単には選べませんでした。石田三成と徳川家康がそれぞれ挙兵した争いは、真田昌幸ほどの武将でも、どちらが勝つのか予想するのは困難だったのです。

悩んだ末、真田昌幸は徳川に付くことを決め、会津(現在の福島県西部)に移った上杉攻めに合流するため宇都宮を目指しました。しかし、石田三成側からの密使が訪れて、状況は一変します。

この時点で、嫡男の真田信之は徳川方の重臣「本多忠勝」(ほんだただかつ)の娘と結婚しており、徳川方との結び付きが強い状態でした。そこで真田昌幸が究極とも言える策を編み出します。それは真田信之が徳川方に、真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は石田方に味方をするという選択でした。つまり家族を両軍に分け、どちらが勝っても真田家が生き残るようにしたのです。

関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利で終わり、真田昌幸と真田幸村(真田信繁)は徳川家康から高野山(のちに九度山[くどやま]へ移転。いずれも和歌山県北部)での蟄居を命じられました。しかし、真田昌幸は勝負に勝っています。なぜなら真田家自体の生き残りは、嫡男の真田信之が真田家を継承することで確約されたからです。

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真田家の家紋は六文銭だけではなかった

家紋は、そのお家の旗印として戦国時代では使用されていました。真田家が使用した家紋をそれぞれご紹介します。

六文銭

六文銭

六文銭

真田家の家紋として一番有名なのはこの「六文銭」(ろくもんせん)です。

別名「六連銭」(ろくれんせん)、「六紋連銭」(ろくもんれんせん)。六文銭の考案者は、真田昌幸の父・真田幸隆だったとされています。

真田家の家紋が六文銭になった理由は諸説あり、真相はいまだ明らかにはなっていません。六文銭それ自体は、仏葬の副葬品である冥銭(めいせん:あの世で使う金銭を模した紙銭など)に由来しています。

三途の川の渡し賃は、「六文」と信じられていました。あの世への道中に「六地蔵」(ろくじぞう)があり、そこに1文ずつお供えして、それが渡し賃になるという考え方から来ています。

結び雁金

結び雁金

結び雁金

「結び雁金」(むすびかりがね)は、主要な家紋である六文銭が使用できなかった一時期に使用されていた家紋です。

雁金の鳥は当時の中国に存在した「がちょう」がベースになったとされています。

しかし、時代を追うごとに結び雁金は使用されなくなり、次第に廃れていきました。

州浜

洲浜

洲浜

「州浜」(すはま)も副次的に使用されていた家紋です。

蓬莱山(ほうらいさん:仙人が住み、不老不死の薬があるとされる伝説の神山)や竜宮城を意味するおめでたい意匠として使用されていました。

諸説ありますが、真田氏が信仰していた神社の神紋が州浜だったため、これをベースに家紋を作成して使用したという説が有力です。

真田昌幸の名言

関ヶ原の戦いの前に

関ヶ原の戦いにおいて、真田昌幸・真田幸村(真田信繁)は西軍に、真田信之は東軍に付くこととなります。

この際に真田昌幸が決意を込めて話した言葉が、「我が真田家は今存亡のときを迎えておる。道を誤ってはならぬ。我らは2つに別れてそれぞれの道を歩むしかあるまい。どちらか生き残ればそれで良い。遺恨も後悔もあるまいぞ」です。

真田家存続のために、親子・兄弟を東軍・西軍に分けた「犬伏の別れ」(いぬぶしのわかれ)と呼ばれる苦渋の決断を下したときの言葉。

結果としてこの決断は功を奏し、真田家は絶えることなく、西軍側に付いた真田昌幸と真田幸村(真田信繁)も、真田信之とその岳父(がくふ:舅)である本多忠勝の口添えにより死罪を免れることとなりました。

九度山に流されて

真田昌幸は関ヶ原の戦いで敗れ、その力を恐れた徳川家康によって、真田幸村(真田信繁)と共に九度山での蟄居を科せられます。

生涯九度山から出ることはかなわなかった真田昌幸ですが、九度山に流される前後に、「さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに」という言葉を残しました。

この言葉は一聴すると単なる負け惜しみに聞こえるかもしれません。しかし、この内府という言葉が徳川家康を指しているのがポイント。

真田家と徳川家の石高や領地の差は、関ヶ原の戦い時点で比較にならないほどの大差があります。にもかかわらず「自分が勝って、徳川家康をこそ、このように蟄居させてやりたかった」と言い放っているのです。

つまり真田昌幸にとって徳川家康とは雲の上の人物などではなく、自分が力を発揮すれば十分に勝てる相手だと認識していたということになります。それだけ自分の知略、戦術に自信があったことを窺わせるのがこの言葉なのです。

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