「上杉謙信」は、越後国(現在の佐渡島を除く新潟県)山内上杉家16代当主の戦国武将です。長年内乱が続いていた越後国を治めて、繁栄させるために尽くした一方で、「武田信玄」や「織田信長」など、名だたる武将と合戦を繰り広げてきました。
上杉謙信の生涯
出生
「上杉謙信」は、1530年(享禄3年)に越後国「春日山城」で守護代「長尾為景」(ながおためかげ)の四男として誕生。幼名は「虎千代」(とらちよ)。名前の由来は、庚寅(かのえとら/こういん)年生まれだったためと言われています。
当時は内乱が激しい時期で、父・長尾為景は1536年(天文5年)8月に、越後国内の国人領主「上条定憲」(じょうじょうさだのり)らに追い込まれる形で隠居。家督は、虎千代の兄「長尾晴景」(ながおはるかげ)が継ぎ、虎千代は長尾為景から避けられるような形で城下にある「林泉寺」に入門しました。
なお、長尾為景が虎千代を疎ましく扱った理由については定かになっていませんが、虎千代が自分の子ではないと疑っていたからという説や、気質が合わなかったからという説などがあります。
1543年(天文12年)、虎千代は元服して「長尾景虎」(ながおかげとら)と名乗るようになり、栃尾城(とちおじょう)に入城しました。
栃尾城の戦いで初陣を飾ることに
長尾景虎の初陣は「栃尾城の戦い」です。その発端は、「上杉定実」(うえすぎさだざね)が「伊達稙宗」(だてたねむね)の子を婿養子に入れるかどうかの問題でした。
賛成派と反対派に二分され、当時権力があった兄・長尾晴景が病弱であったことも重なり、内紛状態に陥ります。さらに翌年の1544年(天文13年)には、越後の豪族が謀反を起こし、長尾景虎が治める栃尾城へ攻めてきたのです。
内乱は激化するかに見えましたが、15歳の長尾景虎を侮ったのが命運を分ける結果になりました。初陣となったその戦いの中で長尾景虎は、少数の城兵を二手に分けて、敵本陣背後を急襲することに成功。
敵軍は混乱状態になり、追い打ちをかけるように城内の本隊を突撃させたことで、戦況は長尾景虎に大きく傾き、初陣は勝利で幕を下ろしました。
川中島の戦いでの活躍
初陣以降も戦歴を重ね、長尾景虎は1550年(天文19年)に室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)の後ろ盾によって、越後国主の地位を確立。1551年(天文20年)には、長く続いた内乱を収めたことで、22歳にして越後統一を果たしたのです。
翌年の1552年(天文21年)、相模国(現在の神奈川県)の「北条氏康」(ほうじょううじやす)に攻め入られて越後国へ逃亡してきた関東管領「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)を保護。しかし、これがきっかけとなり長尾景虎は北条氏康と敵対関係になります。
同年8月、長尾景虎は関東に派兵し、北条軍を上野国(現在の群馬県)から撤退させることに成功。さらに、「武田晴信」(たけだはるのぶ:のちの「武田信玄」)に領国を追われた信濃(現在の長野県)守護「小笠原長時」(おがさわらながとき)を保護したことで、武田晴信とも敵対関係になります。
1553年(天文22年)、長尾景虎は勢力を拡大していた武田晴信率いる武田軍を討伐する決意を固め、「川中島の戦い」が勃発。このあと12年も続く合戦の第一次にあたるこの戦いでは、長尾景虎自らが軍を率いて信濃国に出陣。
結果は、長尾景虎軍の圧勝。続く第二次川中島の戦いでも、川中島の所領を領主に返すという有利な条件を引き出し、長尾景虎軍が勝利します。
1557年(弘治3年)の第三次川中島の戦いでは、長尾景虎軍は武田領内に深く進軍し、武田軍も決戦を避ける形で守りを固め、膠着状態のまま戦いが終わりました。
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小田原城の戦いでさらなる功績を作る
1559年(永禄2年)、長尾景虎は2度目の上洛を果たし、「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)や将軍・足利義輝に拝謁。足利義輝から管領並みの待遇を受けたと言われています。
1560年(永禄3年)5月、「桶狭間の戦い」によって「甲相駿三国同盟」の一角が崩れたのをきっかけに、長尾景虎は北条氏康の討伐を決断しました。越後国から関東へ向かう道中、上野国(現在の群馬県)箕輪城主「長野業正」(ながのなりまさ)の支援を受けながら北条方の諸城を次々と攻略。関東に拠点を作り、徐々に北条軍を追い詰めていきます。
そのまま機を伺いながら年を越しますが、その間に北条討伐に向け関東諸将らの協力を仰ぎ、ついに武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県北東部)へ進軍を開始。
武蔵国の各城を配下に治めつつ小田原城を目指し、10万もの軍勢で小田原城を含めた諸城を包囲して、攻撃を開始しました。長尾景虎の猛攻により、北条氏康が籠城を決断するまで追い込むことに成功したのです。
しかし、勝利を目前にした状況で、長期出兵を維持できない軍が無断で陣を引き払い、結果的に戦力は減少。さらに、武田信玄が動きを見せることで、長尾景虎軍は背後への牽制も余儀なくされ、戦況は膠着状態へと一転します。1ヵ月に亘る包囲も実を結ばず、長尾景虎軍は鎌倉へ撤退したのです。
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軍神、車懸りの陣で武田軍を翻弄する
1561年(永禄4年)、長尾景虎は上杉憲政の要請で山内上杉家の家督と関東管領職を相続しました。そして、名前を「上杉政虎」(うえすぎまさとら)へ改名。
同年8月、関東から帰国した上杉政虎は、5回に亘って行なわれた「川中島の戦い」の中で最も有名な「八幡原の戦い」(第四次川中島の戦い)へと臨みます。濃霧が立ち込める中で上杉政虎は「車懸りの陣」(くるまがかりのじん)を展開。「車懸りの陣」とは、自陣の兵を何列も組み、攻撃を仕掛けては離脱し、後ろに控えていた余力ある兵が攻撃を仕掛けるという波状攻撃の一種です。霧が晴れた途端に上杉軍が目の前に現れたため、武田軍は意表を突かれて戦場は一気に混戦を極めました。
そして、この戦いで有名な逸話はもうひとつあります。それは、上杉政虎が馬を駆って敵本陣に乗り込み、武田信玄へ斬りかかる「上杉謙信と武田信玄の一騎打ち」。斬りかかった上杉政虎の一太刀を、武田信玄は持っていた軍配で受け止めたという逸話ですが、これに関しては後世の創作であるという説が濃厚です。
本合戦は、武田家重臣「山本勘助」や、武田信玄の弟「武田信繁」が討ち死にするなど、武田軍へ甚大な被害を与えたものの、明確な決着がつかないまま終わりを迎えます。
1561年(永禄4年)11月、上杉政虎は「生野山の戦い」(なまのやまのたたかい)で北条氏康と対峙しますが、川中島の戦いの損害が響いて敗戦。しかし、松山城から北条軍を退けることには成功しました。
そして、敗れた上杉政虎に次の試練が襲い掛かります。それは、同族である「上杉憲盛」(うえすぎのりもり)などによる裏切り。諸将が北条側に寝返ったことで状況が一変したのです。
上杉政虎は、裏切った諸将を再び服従させようと動きますが、難攻不落と言われた「唐沢山城」の攻略が難航し、1560年(永禄3年)に始まった「唐沢山城の戦い」はその後、1570年(元亀元年)に上杉政虎が兵を引くまで10回に亘り行なわれました。
破竹の勢いで攻略を進める
1561年(永禄4年)は、上杉政虎が名前を「上杉輝虎」(うえすぎてるとら)に改名した年でもあります。
翌年の1562年(永禄5年)7月には越中国に出陣して勢力を拡大しますが、関東を空けている間に北条・武田連合軍5万人による松山城襲撃を受け、劣勢に陥りました。国境が雪で塞がれている状態での急襲であり、上杉輝虎は急ぎ松山城へ向かいましたが間に合わず落城。
しかし、上杉輝虎は松山城陥落をものともせず、武蔵国や下野国(現在の栃木県)、下総国(現在の千葉県北部、茨城県の一部)、常陸国(現在の茨城県)へと攻め込み、諸城を次々と攻略していきました。
1564年(永禄7年)、最後の川中島の戦い(第五次川中島の戦い)が勃発。60日にも亘る戦いの結果は引き分け。そして、この戦いを最後に上杉輝虎と武田信玄が川中島で戦うことはなくなります。
1565年(永禄8年)、関東統治に欠かせない要衝「関宿城」(せきやどじょう)を巡る「第一次関宿合戦」で、上杉輝虎は苦戦を強いられるだけではなく、関東にいる上杉方諸将の離反というさらなる追い打ちをかけられました。
越相同盟を期にさらなる攻防へ
武田信玄が北条氏康との甲相駿三国同盟を破って駿河国(現在の静岡県)へ侵攻したことで、両者は盟友から敵対に関係を変えて、戦況は三つ巴の状態となりさらに混沌を極めます。
1569年(永禄12年)に上杉輝虎と北条氏康は「越相同盟」(えつそうどうめい)を締結。武田信玄への牽制の意味と、北条方の侵攻を止めるための軍事同盟でした。
一方で関東諸将らは、度重なる関東出兵に対する不満が溜まっており、この同盟でさらに上杉輝虎へ不信感を抱くようになります。長年に亘って北条氏と敵対関係にあった安房国(あわのくに:現在の千葉県安房郡)の大名「里見義弘」(さとみよしひろ)は、上杉輝虎との同盟を破棄して、武田信玄と同盟を結びました。
1570年(元亀元年)12月、上杉輝虎は出家して法号「不識庵謙信」(ふしきあんけんしん)を称し、この時点から「上杉謙信」と名乗るようになります。
北条氏政との戦いでは苦戦を強いられる
1571年(元亀2年)10月、北条氏康がこの世を去ったことをきっかけに、再び状況は変わりました。北条氏康の次男「北条氏政」(ほうじょううじまさ)が家督を継いだことで、上杉側との同盟を破棄。北条氏政は、武田信玄と同盟を結び直して、上杉謙信と敵対するようになったのです。
1574年(天正2年)、上杉謙信は利根川を挟んで北条氏政と睨み合っていましたが、増水していた利根川を渡れず、相対したまま撤退。同年の「第三次関宿合戦」では、関東諸将らが救援軍を出さなかったことで上杉謙信は攻撃することができないまま、関宿城は降伏。この時点で、関東における上杉派の勢力は大幅に低下していました。
能登国の覇権を懸けた七尾城の戦いが勃発
1576年(天正4年)、能登国(現在の石川県北部)の覇権を手に入れるために上洛を急いでいた上杉謙信は、能登国の拠点「七尾城」に目を付けます。
七尾城内では、上杉謙信に頼りたい派閥と、「織田信長」に付こうと考えている派閥で内部対立が起きていました。上杉謙信は、戦わずして掌握しようと近づきましたが交渉は決裂し、能登国の覇権を賭けた「七尾城の戦い」が開始されます。
上杉謙信は、まず外堀から埋めるため、能登国の諸城を次々と攻略していき、七尾城を孤立させることに成功しました。
しかし、七尾城は松尾山の山上に築かれた難攻不落の山城だったため、上杉謙信は攻略に約1年もの時間を要することになります。さらに同時期、追い打ちをかけるように北条軍の進軍や敵軍による諸城奪還で戦況は悪化していきましたが、上杉謙信は七尾城攻略を諦めませんでした。
1577年(天正5年)、長い籠城戦の末に七尾城内では疫病が流行したため、ついに降伏。こうして上杉謙信は、能登国の覇権を握ることに成功したのです。
軍神の最期
上杉謙信が七尾城を攻略した同年、七尾城からの援軍要請を受けていた織田信長は、救援のため軍勢を派遣しようとしていました。
そして、「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」をはじめ、3万にも及ぶ大軍で進軍を開始。加賀北部へ進軍したことを知った上杉謙信は、迎え撃つために一気に南下します。
一方で織田軍側は道中で意見の相違から、豊臣秀吉が離脱するなど足並みが揃わない状況が続いた上に、上杉軍がすでに目と鼻の先に着陣している連絡を受け、形勢不利を悟って撤退を開始。その状況を見た上杉謙信は、手取川を渡る織田軍を追撃し、撃破に成功するのです。
そして、その翌年の1578年(天正6年)。遠征から春日山城に戻った上杉謙信は、次の遠征に向けて準備を行なう最中に城内の厠で倒れ急死。享年49歳。死因は、脳溢血などの病気と言われています。
軍神・上杉謙信の急死は、上杉家に大きな混乱を招くことになりました。上杉謙信は、跡継ぎを養子の「上杉景勝」か「上杉景虎」のどちらにするか決めていなかったのです。こうして後継者争い「御館の乱」(おたてのらん)が勃発。この争いで勝利したのは上杉景勝でした。その後、上杉景勝は豊臣秀吉に恭順し、五大老にまで上り詰めます。
上杉謙信の家紋
上杉笹
「上杉笹」は、上杉謙信が長尾景虎として勢力を拡大していた折に、長尾景虎のもとに逃げてきた「上杉憲政」から、その勇姿を讃えられて関東管領相続の時に「上杉」の姓と共に授けられた家紋。
上杉笹は、「竹に飛び雀」が描かれており、まさにその家の勢いを示しているかのような構図となっています。「竹に飛び雀」は、武家で多く用いられている家紋であり、武家としての姿などを表現した紋です。
五七桐
「五七桐」は、天皇家の象徴と言われる家紋。桐は、古代中国で「鳳凰が棲む」という意味があることから、天皇家の象徴として使われていました。
上杉謙信が五七桐を所有しているのは、2度の上洛が関係しているためと言われています。当時は、近隣の大名や、方々での軋轢によって上洛するのも一苦労の時代でした。
また、天皇の力が弱まっている背景があるため、そもそも会おうとする武将が少なかったのです。
そのような状況下でも上杉謙信は、義を重んじて2度の謁見をしており、それに喜んだ天皇から五七桐を与えられたと言われています。
上杉謙信の名言
人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。軽率なことは言ってはならぬ。
「人の上に立つ者は、よく考えて発言をするべきだ。迂闊なことを言ってはいけない」という意味の言葉です。
人心は、常に変わりやすいものであるため、たった一度の過ちであっても信用を失うことが多くあります。特に戦国時代では、主君の些細な言動が引き金となり謀反に走る家臣は珍しくありませんでした。
上杉謙信は、2度も謀反を起こした「北条高広」や、幾度となく反乱を起こした「佐野昌綱」のことも許すほどに家臣を大切にしていた一方で、規律を破った者には厳しい処分を与えたという逸話があるほど、義理堅い性格だったと言われています。
上杉謙信のこうした逸話の裏には、裏切った相手にも事情があることを理解した上で、手討ちにしないで許すという度量の広さと、一度決めたことを守る姿勢を家臣に手本として示すことで、家臣から信頼を得るという意図があったのです。
運は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり
この言葉は、上杉謙信の居城「春日山城」の壁に書かれていた「春日山城壁書」の一節。全文は、以下のように続きます。
「何時も敵を掌(てのひら)にして合戦すべし。疵(きず)つくことなし。死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。家を出ずるより帰らじと思えばまた帰る。帰ると思えば、ぜひ帰らぬものなり。不定とのみ思うに違わずといえば、武士たる道は不定と思うべからず。必ず一定と思うべし」
武士としてあるべき志を示した言葉であり、要約すると「天運に任せているのではなく、自分自身で道を切り拓くべきだ」という意味になりますが、禅問答(ぜんもんどう)と同じ意味合いを持っており、人によって解釈の仕方が変わる言葉となっています。
上杉謙信がその生涯で参戦した合戦は、約70回。そのうち明確な「敗戦」となったのは僅か2回で、残りの合戦は勝利もしくは引き分けという、まさに「軍神」と呼ぶべき武将だったのです。一方で上杉謙信は、戦術や戦略的に奇襲を仕掛けることはありましたが、「唐沢山城の戦い」で北条方の軍勢約3万5,000の中に、軽装のまま槍を携えて突撃したという逸話からも分かる通り、正々堂々と戦うことを好んでいました。
戦国時代において占いや縁起は重要な意味を持つものでしたが、上杉謙信は武神「毘沙門天」(びしゃもんてん)を信奉した一方で、占いなどに頼らない人柄だったと言われています。
占いは、参考や目安になることもありますが、すべての物事を占いで決めてしまっては何も身に付きません。何かを成し遂げたいときは、それに見合う実力を身に付けることが大事なのです。